一生懸命座っていても、いろんなことが頭に浮かびます。
昨日食ったもののこと。
今日、言われて頭にきたこと。
明日の不安。。。
マインドを静めようとするほど逆にいろいろ出てきますね。
そんなとき、どうするか。。。
雑念て結局なんだ
雑念と言ってもいろいろです。
気分、感情、情動、エモーション、ストレス、これまでの経験、過去生の経験、場所のエネルギー、周りの人の影響などいろんなことに影響されてでてきます。
こころのメカニズム
こころはある法則で動いています。
こころは脳を使って働きます。
だとすると、脳のことを知ることも必要です。
こころの動きを見てみましょう。
たとえば、仕事帰りに、ふと焼き鳥のいい匂いがします。
あるいはチョコレートの広告が目に入ります。
そうすると、こころは過去の焼き鳥とかチョコレートを食べた時の経験を脳の中から引っぱりだしてきます。
思いだすということですね。
そうすると、その時の情景や感情もいっしょに引っ張り出してきます。
楽しかったことや焼き鳥やチョコレートの味や、ほろ苦い思いでなど。。。
こころはそれを認識して感情に訴えかけて、質問をします。
あんとき楽しかったな。。
うまかったな。
嫌なことが忘れられたなあ、などなど。。。
そうすると、脳はそれを今度は神経を通して五感に伝達します。
そしたら焼き鳥の香ばしい味やチョコレートのあまさを舌は思いだします。
五感が感じたことは脳に戻ってきます。
こころといってもいい。
今度はこころは、次の行動をどうしようと選択に迫られます。
このまままっすぐ帰ろう。
いや、少しビールと焼き鳥で一杯やってくか。
帰って野菜たっぷりのご飯を食べよう。
いやいや、チョコレートをかじろうか。
どちらかの選択をします。
たいがいは楽な方、気分のいい方を選びますから、じゃあ一杯やっていこう、チョコレートを食べよう、となります。
悔やんだとしても、明日からがんばろうと思っても、こころはそう自分の思い通りに動いてくれません。
経験が潜在意識にインプットされるからです。
そして次の日、どんなに反省してもまた同じ行動をします。
これはこころの作用です。
こころが動くと、脳に伝わり、小さな電気が走るんです。
たとえば、焼き鳥屋で一杯やるのが繰り返されると、その行為や意識に電気が脳に走って、繰り返すことでそこに小さな溝ができます。
水が低いところに流れるように、こころでどうあがいてもそこに電気がいくように習慣になるので無理なんですね。
雑念もこれと同じメカニズムです。
いろんな経験や感情がこころの奥に押し込めていたのに、静かになったことででてくるんです。
だから自然なことで、けして心が弱いわけではありません。
雑念をどうするか
瞑想したとき、雑念は当たり前です。
人間だから、どんな聖者でもあります。
ただその対処法がわれわれ凡人と聖者は違う。
聖者は瞑想に熟練していますから、またある意味天才ですから、今雑念をどうするかについては凡人が悩み苦しんだ中で捕まえた答えの方が役に立つ、んじゃないかと思います。
どうするか。
認めちゃうんです。
雑念を静めようとか追い払おうとか思うことがそもそも雑念ですね。
放っておけばいいんです。
そのうち、雑念がありながらでもすこうしだけ、こころが落ち着いてきます。
そのとき、少し離すんです。
距離を置く。
テレビを見ているような感じで、少し自分と遠いもののように眺めるようにする。
そもそも雑念とは、こころがいらないものをだそうとしてでてくる浄化のメカニズムです。
だから押し込めるのではなく、そっとしておいて、どんどんだしてしまう。
こころのクリーニングです。
だんだんできます。
こころはひとつのことしかできません。
いくつものことを同時にしていると感じるのは、こころのスピードが速いからです。
こころのスピードは光よりも早い、とインドで教わりました。
だから何かに集中する。
だけど、雑念がでてきてしまうと、今度はそれに集中してしまう。
こころは飽きっぽいという性質もありますから。
それで、いろいろ葛藤して集中できない。
で、やめたってなる。
ただ座ればいい
ただ座ればいいんです。
雑念を放っておく。
こころがやりたいようにやらせておく。
そのうち、静かな凪のような状態になるので、それまであれこれ工夫をしないで待つんです。
宇宙に委ねる感じと、雑念が同居しているような状態でいいんです。
そのうち、心自らが自分の内側や宇宙へ向かうようになります。
心は魅力に向かう性質がありますから。
ある程度、時間と日数はかかります。
これでいいのかとあれこれ悩まず、とにかく座る。
それを積み重ねる。
瞑想の時の、雑念が云々という問題は、時間が必ず解決してくれる問題です。
そういっているうちは、瞑想の時間がまだまだ足りない。
みんな、がんばれ。。。
呼吸やひとつのものに集中するのをサグナ瞑想と言います。
サグナなら、こころが揺れ動いても、気づいたら「いけねえ」って、また集中のポイントに意識を向けようとする。
大きなものと一体になる瞑想をニルグナ瞑想と言います。
ニルグナで座るなら、自然とか宇宙とか神とかとの一体感を感じるようにして、それでも「きのう、あのやろう、あんなこといいやがって」となっても、それはそれとして、大きなものに意識を向ける努力をするだけでいいんです。
最も大事なことは、時間が解決してくれるということを覚えておくことです。
できないのは時間とか年数が足りないだけです。
いきなり上手に瞑想できる人など天才以外いません。
仕事も趣味も自転車も水泳も、失敗しながらうまくなっていくのと同じです。
瞑想の姿勢は、宇宙のエネルギーが同調する姿勢ですから、そのうち、なんか変化があるんです。
それまで、あれこれ理屈をこねないで、ただ座る。
禅宗では、只管打座といいます。
呼吸も静かに自然になってきて、体の力が抜けてリラックスしていて、こころが平安で、ほんとうに求める者に向かおうとする。
そうしたら、今度は集中をやめて、こころのしたいようにさせてあげる。
意識はしっかり持ちながら、こころが求める方に自然に向かおうとします。
サグナなら、こころの奥のヨガでいうアートマンに向かいます。
ニルグナなら、宇宙の中心のブラフマンに向かおうとします。
だから雑念は当たり前で、そっとしとけばいいし、そんなもの放っておけばいいんです。
囚われるからそれに執着しちゃうんです。
慣れれば瞑想は、その人にとってなくてはならないものになります。
ヨーガは世界を救うと私たちは信じています。
みんな、がんばれ^^。