瞑想

瞑想できない わからない 集中できない人へ

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人間は理想通りにはなかなか生きれません。

 

ヨガをしているから菜食じゃないといけない。

ケンカしちゃいけない、毎日瞑想しなくちゃいけない。

お釈迦様はこういった、こういう生き方こそ素晴らしい生き方でそう生きよう、などなど。

そういうことできれば誰も最初から苦労しない。

できないから大変です。

そう生きられない人もそうできない時も誰だってあるんです。

けれど、そういうことを宇宙が望んでいるから、あるんです。

すべては経験なので、言い方を変えたら辛いけど、辛いほど学びになっている。

 

現在の自分を認めることからはじめる

 

瞑想を学んで、続けるのは素晴らしいことです。

ヨガのアサナや呼吸は体と心を整えてくれます。

 

だけどどんなに頑張ってもそうできない人もいます。

ついさぼっちゃったり、続かなかったり。

 

程度の差はありますが、人は間違えちゃいます。

文学や芸術はそこから生まれている。

人間だから人間臭くていいんじゃないでしょうか。

いつか、根源の存在のところにいく。

 

ヘビーなうつや依存、辛いの人たちがどうすればいいのかって、多くの本にはなにも書いてないし答えを持っていない。

 

そんな簡単に割り切れるほど、魂は単純じゃない。

宗教も哲学も素晴らしいもので、おそらくベースです。

それは基本や法則を伝えているので、ザクっと学んだら、自分なりにやればいいんです。

 

宇宙がどうして存在しているのか、って考えることは、どう生きるのかという答えに対する問いかけです。

そういうことに瞑想したらいい。

 

できない時はそのままで生きていけばいい。

簡単に理解して汚れたものを排除して、きれいごとだけ言う人より、実はもがいてる人の方が深いんです。

谷深ければ山高しという言葉があるように、理想通りにできない人こそ、器量の大きな人間です。

妥協していないから。

 

霊的なことについて、大きなものが中心にあってすべてはお互いさまで依存しあっていること、それは愛であること、マイナスの部分はそれを学ぶためにあることだけ知っていればいいんです。

 

すべての生きとし生けるものはブッダになる宿命で生きています。

その途中の段階なので、そうならその時なりに、ただ一生懸命生きればいい。

 

ご年配の方と会う機会が多い私は、その方たちの大きさにいつもとても感動します。

何も説教時見たこと言わないで、温かく、やさしく、思いやりと愛で生きています。

 

私は酒も飲むし、ケンカもするし、仕事で失敗もするし、悩むし苦しむしさみしいし、それでもどっこい生きています。

ヨガの先生仲間ではあの人はだめだと思われています。

生徒さんにもだめ先生とほとんどの人が思ったのだろうと思います。

だけど、おばあちゃんは何も言わずお茶をだしてくださり、「徳を積んでいるんだよ」「ありがとう」としわくちゃの笑顔でいってくれます。

 

それこそ、奇跡のコースでいう教師じゃないでしょうか。

 

辛い人にお伝えしたいのは、辛いままでいいということです。

適当に理想ばかり言う人の言葉を、辛いときは聞かなくていい。

だけど、そういう人はとても純粋だということも理解してあげなくちゃならない。

真剣だから、宇宙のことや神様のことを学び感動したから、語っているんです。

 

バイブルや経典に書かれているものと違う自分でも今はいい。

そういうことを神様が経験させているからです。

経験したことがない人にはわからないことを経験させて、ずっと先の未来(来世かもしれない)に、そういうことを伝える役割のためにそういう経験を味わっているのかもしれないし、愛を学ぶために自分の魂が仕組んだことかもしれないんです。

 

陰極まれば陽に転じます。

どしんと構えてどっこい生きればいいんです。

 

ただ呼吸に意識を向けて待てばいい。

 

瞑想で集中できないとか、いろいろ考えちゃうというときは、そういうことに対して瞑想したらいい。

 

だいたい、現代の日本の都会で深く瞑想などよほどの人じゃないとできません。

いろんなエネルギーがあれているからです。

疲れをとるだけとか少し心が落ち着いた、でいいんです。

瞑想の本は理想を書いています。

それはヒマラヤや山奥じゃないとできないようなレベルのことなので、そこまでできなくて当たり前なので、悩む必要はない。

 

呼吸に静かに意識を向ける、辛い、荒れた、さみしいマインドをそれでも何とかそっと覗いてみる。

だめだと自分で思っている自分とほんの少しでいいので向き合ってみる。

緊張したこころと理屈だけの社会に疲れた頭と忙しく働いている心臓を一時でも休ませる。

瞑想とはそれでいいんです。

 

酒やめる必要もないし、タバコを吸っている人は吸えばいいし、ドラッグやっている人は続けていい。

そういうのがいけないというレベルは、深くなった時のことです。

足が痛ければ組み替えればいいし、ソファに寝転んでもいいんです。

ただひとつ。

こころを自分の方に向けることだけが、たった一つの必要なことです。

 

ほんとに瞑想するなら、仕事も一時期できないし、ほぼ断食状態で、そういうカルマの時、グルに巡り合い、生きるとか死ぬとか関係なくするのがほんとの深い瞑想で、平凡な私たちはそんなことより、ほかにすることがたくさんあります。

 

自分の内側に意識を向ける。そこに平安がある

 

技術的なこととかしか多くの本は書いてありません。

それは、自分で実践して多くのことを自分でひとつひとつかみ砕いていくしかないからです。

 

あれ? という感じとか、なんだか穏やかや平安な感じとか、やってくるときがあります。

その糸をつかんで、たぐっていくんです。

 

そうならないなら、だめだなあとか、自分は何やってんだとか、いらいらしているなあとか、それでもがんばっるなあとかって、葛藤したり傷ついたりしながら座ってりゃいいんです。

 

さぼるときはさぼっていい。

座りたいとおもうときがあるので、その時、さっと座ればいい。

そのとき、ぎすぎすした顔でも、さみしい目をしていたままでいい。

宇宙というのは途方もなく大きいので、そんなの全部浄化してくれます。

理想じゃないことも飲み込むのが宇宙だし、そういうことを乗り越えるためにマイナスのこともあるのが現実です。

 

こうじゃなきゃいけないとか、人間はこう生きるべきとか、スピリチュアルに生きなきゃだめとか思うのは、魂のレベルがまだまだだからです。

 

呼吸もいきなり静かな腹式呼吸などできません。

それは、だんだん自然にそうなるまで待てばいいんです。

背中が丸まってもいい。

長くできなきゃ、その時はやめていい。

遊びに行きたいときは行けばいい。

やせ我慢ばかりしてると、こころは委縮します。

禅宗でとことん厳しいのは、そういうカルマや人生のタイミングとしてそうだから、とことんやるんです。

私はこんな自分でも師匠のお寺にしばらくいて、社会に戻ってくると、なんだかふわふわした言葉だけのことだけ言う人が多いなって、感じます。

 

禅宗は朝1時間とかだけ座って、お経とかしてあとはひたすら夕方まで労働です。

それで就寝時間がきてから、やっと自分のために座ります。

禅宗はだいたい外で座りますから、月がきれいです。

凛とした状態になった時、ふだんと違う強くてたくましい部分が自分にもあったんだと気づけます。

 

でもそれはそういう環境に置かれたからで、ふだんはそんなに厳しく自分を律することができる人はまずいません。

 

だから、ほんの少しの時間とかでいいんです。

毎日じゃなくてもいい。

少しだけでも座ったら、自分を見つめる。

それを繰り返すと、ふだんの人生でも自分を見ることが少しずつできるようになる。

 

瞑想とはそういうところから始めるのが基本なので、姿勢やら集中やら関係ない。

 

二日酔いしてたら、二日酔いしてる自分と対話すればいいんです。

 

現実はマーヤ(幻)なので、それに気づくために瞑想するのであって、やり方なんてとりあえずの方便です。

本質をわかれば、瞑想は(できないと思っている人ほど)その瞬間に実はできています。

 

みんながんばれ^^

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