ヨーガのセッションをしていたとき、いつも感じていたことがありました。
真面目に真剣に取り組む人ほど、悩み、もがいていました。
不器用で、ひたむきで、純粋で、一生懸命な人ほど自分を責めたり、苦しんでいました。
自分もそういうところがあったりしたけれど、そういう人ほど輝いて見えました。
ヨーガ哲学(ヴェーダ)は本質で真理だ
ヨーガの根底をなすものは、インドのヴェーダです。
ヴェーダには宇宙のすべてがあります。
膨大で無限で、広く、深い。
それをひとりの人間がひとつひとつ学ぶことは不可能に近い(完全に不可能ではないけれど)。
それをまとめたものがヴェーダンダです。
ヴェーダの最後(アンガ)ということでヴェーダンダ。
ヨーガ哲学とはヴェーダンダのことです。
ヴェーダンダを学ぶことがヨーガを学ぶことで、ストレス解消とか表面の癒やしとか、軽いスピリチュアルではありません。
宇宙の真理であり、すべての宗教、芸術に共通する根底に流れるものを扱っています。
すごいものです。
ヨーガを学ぶと言うことは、大きなもの(ホーリースピリット、グレイトスピリット、天、神、ブラフマン、愛)と繋がることを学ぶことなので、柔軟体操とか運動不足解消のツールではありません。
だから、みな真剣に親身に学ぼうとしています。
世界中からインドに訪れます。
だけど。。。
完璧を求めていいけど、完璧じゃなくていい
一生懸命な人ほど、完璧を求めようとして苦しんでしまうときがあって、そういう人をたくさん見てきたし、だいたい自分もそうでした。
世界の本質
すべての命はしあわせになろうとしているだけです。
よりよくなろうとしているだけです。
宇宙は、少しずつ前進しようとしているので、完璧ではない。
完璧になったら、この宇宙は必要なくなるので消滅します。
なぜなら、この世界は、それを学ぶために存在しているものだから。
完全にむかっている途上なので、間違うし、争うし、辛いし、さみしいし、やるせない。
さまざまを経験し学ぶためにあるのだから、間違うのは、苦しむのは当たり前のことで宇宙がそうしようとしているんです。
だから試行錯誤して、もがいてもがいてが普通の姿なんです。
人間臭くていい
人はすぐには変わらないです。
ピラミッドの壁画と象形文字
エジプトのピラミッドの壁画は動物や人間の暮らしが描かれています。
どうやって描かれたのか知っていますか?
働いていた人間が、さぼって暇にあかせて書いていたんです。
上に行くと重いレンガを運ばされるから、下の方に隠れて時間を持てあまして書いていたんです。
象形文字は宇宙の真理が書かれていそうですね。
書かれていることはぜんぜん違うんです。
「あいつの方が楽な仕事をしている」
「あんなこと言われて腹が立った」
「二日酔いで頭が痛い」
「せっかくもらった山羊を泥棒に盗まれちまった」
「母ちゃんとけんかした」
「神はどこにいるのか」
そういうことが書かれています。
人間くさい。
それから、
「あいつは病気で食い物がないから、今日の晩飯はあいつにやろう」
「あんなこと言っちゃったからあとで誤ろう」
とか書かれています。
今とおんなじです。
源氏物語
数百年前の恋のはなしは、今の私たちが読んでもわかります。
芸術
きれいなものをきれいなものだと表現しようとしているのが芸術だとしたら。
生の喜びや愛や思いやりを、ステキなものを他者に延長しようとしているのが芸術だとしたら。
そういうものを表現しようとして、それができずにもがいて、諦めかけて、なんとかひねくりだして、そういう葛藤を表現しているから、心が動かされるのであって、完璧なものではないだろうし、美しすぎるだけではないです。
完璧な愛そのものを表現しようとしているので、そのものを完璧に表現しているものではない。
スピリットの呼ぶ声
人間くさくていいんです。
間違っていい。
だめだっていい。
バカだっていい。
私たちの心の奥にスペースがあります。
そこには、愛、強さ、寛容さ、命の輝きがもうすでにそこにあります。
人が喜ぶことに喜びを感じる。
進化しようとする力がある。
倒れている人を助けようとしたり、困っている人に何かしようとするエネルギーがあります。
そういうものが、すべての命にすでに宿っているんです。
理屈、感情、もやもやなどで、少しだけ曇っちゃっているだけなんです。
それも今だけで、いつかそこに行き着く。
まっすぐ向かうのではなく、寄り道して(経験して)、後戻りしながらそこに向かうことを宇宙が求めているんです。
だからそれを信じて、委ねるだけでいい。
コースではそのパワーを精霊と言っています。
そこを天国と表現しているのであって、あの世とかじゃない。
ヨーガのグルは、自分の中にあるそこに向かわせるための存在で、グルはその人に助言を与え導いてくれるので、ほんとは自分で歩いて行くんです。
そのままでいい
チベットのシャンバラの聖者は、修行に修行を重ねた上で、最初からそれはそこにあったと言いました。
生きとし生けるすべての命は、正しい道を進んでいます。
ラマナ・マハリシは、その途上で、あっちこっちぶつかって道に迷ってから、そこに到達すると伝えています。
イエスもババジもブッダも、そのための少しの近道を伝えようとしています。
だから、
そのままでいい、そのままがいい。
瞑想ができないからって、そんなのはどうってことない。
生活が乱れても、何かに依存しても大丈夫^^。
バランスをとろうとして、命が一生懸命そうしているだけだから。
いつか修正する力を宇宙はすでに持っているから。
さみしいときは「さみしい」と感じるだけでいい。
頑張ったっていいし、頑張れなくたっていいし、さぼって休んじゃっていい。
マインドに振り回されても、その先にすごい力があるから、それを信じて委ねるだけでいい。
ヨーガや奇跡のコースを学ぶとはそういうことです。
だから瞑想さぼって酒飲んで二日酔いしちゃって頭痛いときあるけど、ぜんぜん大丈夫。。。
みんながんばれ^^